加賀禅定道
白山一里の温泉から1.5km手前地点。

尾添(おぞう)集落です。



加賀禅定道

ここから一里の高原スキー場への旧道があります。

その道を登ってすぐに右に折り返します。




加賀禅定道

すると、白山下山仏社の石票が現れます。




加賀禅定道

ここが白山下山仏社です。




白山から下ろされた仏像9体をお祀りしているお堂です。

明治になって出された神仏分離令に基づき、それまで一緒に祀られていた神と仏、神社と寺院がはっきりと分けられ、仏教に関係する多くのものが廃されました(廃仏毀釈)。
白山に祀られていた数千ともいわれる仏像も、そのほとんどが壊されたり谷に廃棄されたりしたとのことです。

明治5年に白山と山麓18ヶ村が石川県の所管となり、住民たちがそれまでどうしても取り除けずにいた仏像を、下山させることになりました。
実際の下山作業は明治7年7月に行われ、白山三峰の頂上付近に祀られていた仏像9体は白峰の林西寺に移されました。

その際、加賀側から白山に登る加賀禅定道の檜新宮(ひのきしんぐう、ひのしんぐう)からも仏像が下山。
尾添村の村人たちによって小さなお堂に安置され、長く「神様」と称して崇拝されてきました。
それが今「白山下山仏社」に祀られている「白山下山仏」です。
現在は「尾添白山社 白山下山仏 半鐘含む(仏体九点半鐘一点)」として、石川県指定文化財(歴史資料)になっています。




元々檜新宮に安置されていた仏像を破壊の手から守って、ここに下山仏として安置したようです。



加賀禅定道



 白山ろくの人々が、いかに仏教への帰依を大切にしてきたかは、「下山仏」の存在にも現れています。
古来、白山には神と仏を融合させた神仏習合の信仰が大切にされ、山頂近くには多くの仏像が安置されていました。
明治維新を機に政府によって神仏分離が布告され、仏教を排斥する廃仏毀釈が進められると、それまで人々が大事にしてきた仏像も破壊の危機に陥りました。
その際、何者かの手によって密かに仏像が山から下ろされ、白峰地区の「林西寺」と「尾添白山社」にこっそりと安置されました。
それが「白山下山仏」です。
「尾添白山社」には、加賀禅定道の「檜新宮(ひのしんぐう)」にあった仏像12点と半鐘1点が保管され、そのうち仏像9点と半鐘が県指定文化財となっています。

 正月三が日と白山まつりの時だけご開帳されるものですが、林さんが特別に見せてくれました。
「仏像を運んだ人は命懸けやったと思います。祈りたいという気持ちはとても自然なことで、誰にも止められない。白山を敬い、山と共に生きるという思いと一緒。純粋な気持ちですよね」と言う林さんの言葉が心に残りました。



仏像を破壊するって?

タリバンとかISとかで目の当たりにしたと思いますが、日本のそれは破壊規模としては前者をはるかに超えた、史上最悪の規模だったと言う話です。




 これによって、日本全国で奈良朝以来の夥(おびただ)しい数の貴重な仏像、仏具、寺院が破壊され、僧侶は激しい弾圧を受け、還俗(げんぞく)を強制されたりした。

 ひと言でいえば、薩摩、長州という新しい権力者による千年以上の永きに亘って創り上げられた我が国固有の伝統文化の破壊活動である。

 現代のイスラム原理主義勢力タリバーンやイスラム国を思えば分かり易いであろう。
 文化財の破壊という点のみでいえば、イスラム原理主義者による文化財の破壊より規模は遥かに大きかった。







加賀禅定道

お社の脇には、大林遊歩道の案内があります。



加賀禅定道

少しだけ歩いてみました。



加賀禅定道

この道こそが、かつての加賀禅定道のわずかに残された里山区間の一部になります。




加賀禅定道

木のうろ。




加賀禅定道

かつての白山には数千体の仏像があって、そのほとんどが廃仏毀釈で破壊され、あるいは、谷底に投げ捨てられました。

白山下山仏として、白峰の林西寺とこちらの下山仏社に下された仏像はわずかに数十体です。

白山信仰をはじめとする山岳信仰 修験道は、明治五年9月15日、太政官布告第二七三号「修験宗廃止令」の布告によって一切認めないこととなり、はっきりと仏教になるように命じられてしまう。




修験道廃止の命令:背景と影響

江戸時代が終わり、明治維新により天皇を中心とする新政府が誕生した。
冒頭にも述べたように、神道国教化を目的とした政策の一つとして明治政府は、神仏判然令を出した。

神仏判然令を政府が急速に進めようとした背景は、明治初期の宗教政策の実権を掌握していたのは誰かを考えればわかるかもしれない。この当時の宗教政策に関する実権を握っていたのは、平田篤胤派の学者(神道国教化を掲げる)と神祇官たち(祭政一致政策を推進)であった。

明治元年〜明治四年頃

明治元年から明治四年頃は神仏判然令への対応として、修験道側は大きく分けると以下の対応をとった。

寺院として存続
復飾(還俗)して神主になる
帰農する(農民になる)
この時期は、新政府において一貫した政策がなく流動的であった。

明治五年以降

明治五年9月15日、太政官布告第二七三号「修験宗廃止令」の布告によって状況は深刻になっていく。

修験宗廃止令の原文
修験宗ノ儀、自今被廃止、本山当山羽黒派共従来ノ本寺所轄ノ儘、天台真言ノ両本山へ帰入被 仰付候條、各地方官ニ於テ此旨相心得、管内寺院へ可相達候事

修験宗廃止令を要約すると以下になる。

修験者を仏教徒であるとみなす。
修験道は宗派としては消滅させる。
本山派は本寺(聖護院)所属のまま天台宗に帰入すること。
当山派は、本寺(醍醐三宝寺)所属のまま真言宗に帰入すること。
修験宗廃止令が出るまでは、神仏ある程度区別することで修験道を継続できると考えられた。しかしこの廃止令によって修験道自体を一切認めないこととなり、はっきりと仏教になるように命じられてしまった。

なお、本山派当山派のいずれにも属さなかった修験道もあった。その一つの吉野修験(東叡山寛永寺を本寺)は天台宗、もう一方の羽黒修験(おなじく東叡山寛永寺を本寺)は荒澤寺所轄で天台宗に帰入することになった。



白山信仰の光と闇。

闇の部分は白山1300年の歴史の中で、ほんの百五十年ほど前の話になりますね。

次回は、加賀禅定道の古道をさらに深掘りしてみます。






白山七社巡り 笥笠中宮神社と尾添二社 4K

イーハ陶房でくの


 

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