佐羅早松神社

旧吉野谷村にある、佐羅早松神社を訪れてみます。




佐羅早松神社

白山七社、中宮三社のうちの一つです。




佐羅早松神社

標柱には「村社」と刻まれていました。



佐羅早松神社

国道からお社まではそれなりの距離があります。

600mくらいかな?



佐羅早松神社

古道という感じの道ですね。




佐羅早松神社

電柱っぽいものが並んでいますが、電線はありません。




佐羅早松神社

水路を勢いよく水が流れています。



佐羅早松神社

昔の簡易水道的なものでしょうか?

ものすごい水量です!w





佐羅早松神社

昭和の時代までは、生活用水はこんな感じで引き込んでいるケースが多々存在しました。

上水道が整備されるまでは、安心して飲める水が確保できる場所にしか、人は住めなかったのです。

ですから、水源に神社を配置して、崇め奉ったというのも納得ですかね?




佐羅早松神社

ビロウドカミキリ

だとおもわれる ^^;




佐羅早松神社

結構歩きました。




佐羅早松神社

古びた石垣。




佐羅早松神社

山の中に手水舎が現れます。

流石に水は流れておりません。

おそらく、人は来ないのでねぇ、、、、、^^;w





佐羅早松神社

御手洗は一塊の岩をくり抜いて作られています。



佐羅早松神社

龍神様は青銅製。




佐羅早松神社

鳥居は新しい感じですね。



佐羅早松神社

佐羅早松神社の由来。

歴史上画期的な事件だったんだ。




佐羅早松神社



鎮座地 石川県白山市佐良ヤの11番地
御祭神 天忍穂耳尊・菊理姫命

創立は大永神書に「佐羅宮円融院壬午月日」と記され、天元5年5月(982)とされています。
白山七社の中宮三社(佐良宮・中宮・別宮)の一つに数えられており、由緒に富むお社と言えます。
往時は大変に隆盛を誇ったと言われ、現在もその社殿、境内では、当時の厳かな雰囲気を感じることができます。

『白山記』に「本地不動明王、天元五年造始、宝殿、小社文殊普賢、早松、竝松、米持金剛童子、白子、瀧六所御子、本佛大日如來、長保元年(999)二宇講堂一宇造始之」との記述が見え、嘗ては多くの建物が存在していたことをうかがわせ、神仏習合時代の名残を今に残しています。
また安元事件(湧泉寺事件1177)において、僧兵たちが神輿とともに都を目指して進み、事態の解決と収束を求めた史実は「白山神輿が京に上る」として今も伝えられています。

祭典の際には、氏子の皆様がこぞって御参拝され、厳粛な中にも温かみに満ちた雰囲気で祭を齋行しております。
また氏子の皆様は由緒あるお社との誇りと篤きご敬神の念をもってお社の歴史を繋いでくださっています。



しらやまさんのHPより


佐羅早松神社

緑色の彩色の跡が伺えます。



佐羅早松神社

早松神社



「白山之記」

又一の宝社あり。 佐羅大明神と名く。 本地は不動明王なり。 天元五年(壬午)始て宝殿を造る。 小社(普賢文殊)は早松・並松(米持金剛童子なり)なり。 台子の滝六所の御子あり。 本仏は大日如来なり。 長保元年(己亥)(二宇あり。五間二面なり。講堂一宇これを造り始む)。
白山七社本地垂迹事

本宮(御位は正一位なり)
本地は十一面観音なり。 垂迹は女神なり。 御髻と御装束は唐女の如し。

金剱宮(白山の第一の王子なり)
本地は倶利伽羅明王なり。 垂迹は男神なり。 御冠に上衣を着す。 銀弓と金箭を帯し、金作の御太刀はかせ給ふ。

三宮(白山の第三の姫宮なり)
本地は千手観音なり。 垂迹は女神なり。 御装束等は本宮の如し。

岩本宮(白山の第二の王子なり)
禅師権現なり。 本地は地蔵菩薩なり。 垂迹は僧形なり。

中宮
本地は如意輪なり。 垂迹は本宮の如し。 ただし童形か。 児宮と云々。 ただし根本は如意輪なり。 後に三所を祝ひ奉る。

佐羅宮
本地は不動明王なり。 垂迹は金剱宮の如し。 早松は普賢・文殊なり。 二童子の本地か。

別宮
本地は十一面・阿弥陀・正観音の三所権現なり。 十一面は垂迹なり。 御姿本宮の如し。 阿弥陀は奇眼老翁なり。 神彩甚た閑正なり。 観音は咲を含む。 宰の官人なり。 銀弓金箭を帯す。



本地垂迹資料便覧より




佐羅早松神社

拝殿です。




佐羅早松神社

本地は不動明王。



佐羅早松神社

こちらも狛犬の阿は左側です。




佐羅早松神社

右の吽は獅子のように見えますね。



佐羅早松神社

扁額は墨で書かれております。



佐羅早松神社

これについて触れている資料は今のところ見つかりません。



佐羅早松神社

脇にもお社があります。




佐羅早松神社

菊理姫神社とあります。

早松神社がメインで菊理姫神社は後から付け足した感じなのか??

拝殿の本地仏が不動明王のままですし、なんだか別宮神社とは状況が異なるようです。





佐羅早松神社 (さらはやまつじんじゃ)

通称
はやまつさま
早松さま

主祭神
?呆淘枢?不合尊( うがやふきあえずのみこと)
菊理姫命(くくりひめのみこと)

由緒由来
当社は美濃市上河和、長良川が大きく湾曲するところ、郡上郡との境に聳ゆる標高546メートルの水晶山より流れる河戸谷にそって山懐に鎮座する。
創祀は古く、僧泰澄、養老2年(718)産土神の宮に白山神社を鎮斎する。

後佐良早松神社を勧請して、佐羅早松神社と改称する。この地は白山街道(郡上街道)が長良川右岸から左岸に渡ったところ、白山街道の喉口であり、参拝者の修業場であり休憩場であった。
石川縣石川郡吉野村字佐良の佐良早松神社は、白山7社の内、中宮3社の一社である。
この宮は円融天皇の天元5年(982)の創祀である。
壮大な社有地を有し、多くの僧兵を抱えて強権を発揮した。
剣神社・白山神社・早松神社の三社の神輿は上洛して盛大を極めた。
御祭神はウガヤフキアエズノミコト、菊理姫命を主神とし、合祀祭神として国常立命、大己貴命、大山祇命、素盞男命、軻遇槌神、宇迦魂神の六柱の神を奉斎する。




情報を探すと、岐阜の美濃の方にも佐羅早松神社があるようです。

この二つの早松神社にどのような関わりがあるのでしょうか?



佐羅早松神社

杉の大木に囲まれています。




佐羅早松神社

小高い丘の上に神社は存在しております。




佐羅早松神社



佐羅早松神社では現在の主祭神は草葺不合命 (鵜草葺不合命、うがやふきあえずのみこと)。
文字数の割に読みが異常に長い神様ですが、山幸彦と海神の娘・豊玉姫の息子。
育ての母と云える玉依姫(豊玉姫の妹)と結婚して四男に神武天皇がいます。
玉依姫は機織り姫としても知られています。
神の使者と織姫ということは、佐羅はこの二神を表すのかもしれません。
早松は解りませんが、草葺不合命 のことかも。
拝殿の扁額は手作りで簡素なもので早松神社となっています。
小社として脇に菊理姫が祀られていますが、本来格上の菊理姫が脇に廻るという首を傾げる状態です。
これが玉依姫なら納得なんですが。。

白山記の記述通りなら、早松が文殊・普賢菩薩なら五王子を祀っていることになります。



つとつとのブログより。


なるほど、色々と謎の多い神社でございます。




佐羅早松神社

これだけ立派な鳥居を建てるとなると、相当な有力者がいるのかもしれませんね。



佐羅早松神社

木滑(きなめり)に移動しました。




佐羅早松神社



吉野の関所は、間道が多く関所として都合が悪いことから寛文元年(1661年)に木滑に移されました。
ここが加賀藩と天領の境となり、木滑口留番所と称して、侍1人、足軽5人が配置されていました。
関所は、明治4年(1871年)に廃止され、大正6年(1917年)に木滑神社が置かれました。







木滑(きなめり)神社

上木滑と下木滑の産土神さまです。
県の自然保護センターの側にあります。
ウォークラリーのポイントで、子どもたちは鳥居をくぐる際に礼儀正しくお礼をしていました。
礼儀を知っていますね。
やるなあ。



なるほど、木滑神社も現存しているわけですね!



木滑関所後

こちらの案内板には、八幡神社が置かれましたと書かれております。



佐羅早松神社

まあ、目の前にあるのは八幡神社の方なんですがね?

木滑神社も確かめてみなければなりませんな、、、、。



佐羅早松神社

ここが加賀藩と天領の境だったということです。

天領(てんりょう)とは、江戸時代における江戸幕府の直轄地のことです。


佐羅早松神社

向こう側が俗世の地、こちら側が天領だったんだね。






白山七社巡り 佐羅早松神社と木滑口留番所跡 4K

イーハ陶房でくの



 

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