それでは三の宮に向かいます。
鳥居は随分と質素なものになりました。
1300年の歴史を感じる参道です。
ここも杉の巨木に囲まれています。
納経所
納経所跡(のうきょうしょあと)
平安の頃より六十六部といって滅罪の経典である法華経を写経し、その一部ずつを日本六十六ヶ所の神社に納めながら諸国を巡礼しました。
とくに江戸時代には盛んに行われ、越前での納経所は当社だけです。
境内にある結神社の傍らには「天下泰平 日月晴明」「大乗妙典六十六部廻國供養塔」と刻した石碑が現存しています。
参道から納経所に行く道の両脇には、破壊された石仏が無造作に積み上げられていました。
どの像も首がもぎ取られています。
納経所の手前にも古びた石仏が置いてありました。
こちらは首がつながっています。
中にも何か石碑のようなものがあるようです。
この石仏も真ん中でへし折られていました。
首のない石仏たち。
不動明王でしょうか?
神仏分離
このような神仏習合の風潮の一方で、神事においては仏法を忌避すべきであるという観念が存在し、儒学や国学の勃興とともに仏教の宗教的権威が相対化され、排仏的風潮が高まっていきました。
それに伴い神仏習合色の強い神社において、神職の別当寺支配への抵抗行動が起こり、あるいは寺請制度と結びついた仏葬への反発から神葬祭運動が起こりました。
明治維新の慶応4年(1868)4月には仏教風の神号の廃止、仏像を神体とすることの禁止、神前の仏器仏具の撤廃などを内容とした神仏判然令が維新政府から布告され、神仏分離が行われました。
そして明治6年(1873)には、修験道が廃止されました。
一部では本地仏・仏具や別当寺を破却・廃棄するなどの過激な廃仏毀釈事件が起こりました。
そのため大切な仏様は、神社の御本殿内に隠したり、御本殿床下に安置して難を逃れようとしました。
白山では室堂や登山道の仏像は廃棄され、もしくは破壊され、一部は山から降ろされました。越前室の下山仏は旧白峰村の白山本地堂に祀られ、加賀室の下山仏は旧尾口村尾添の白山下山佛社に保管されています。
戦後は神社が国家管理から離れたため、民衆に根強い信仰のある神仏習合儀礼を復活し、現在でも仏教系の諸宗派において、また神社において神仏習合の様式を取り入れた祭典・仏事を営む神社や寺院も存在しています。
白山では室堂や登山道の仏像は廃棄され、もしくは破壊され、、、、。
とあります。
これらの石仏は越前禅定道や平泉寺の境内地に祀られていたものだったのでしょうか?
薩長新政権が惹き起こした「廃仏毀釈」というムーブメントは、歴史上例をみない醜い日本文化の破壊活動であった。
これは、俗にいう明治維新の動乱の中で、明治元(1868)年に薩長新政権が打ち出した思想政策によって惹き起こされた、直接的には仏教施設への無差別な、また無分別(むふんべつ)な攻撃、破壊活動のことをいう。
これによって、日本全国で奈良朝以来の夥(おびただ)しい数の貴重な仏像、仏具、寺院が破壊され、僧侶は激しい弾圧を受け、還俗(げんぞく)を強制されたりした。
ひと言でいえば、薩摩、長州という新しい権力者による千年以上の永きに亘って創り上げられた我が国固有の伝統文化の破壊活動である。
現代のイスラム原理主義勢力タリバーンやイスラム国を思えば分かり易いであろう。
文化財の破壊という点のみでいえば、イスラム原理主義者による文化財の破壊より規模は遥かに大きかった。
我々は現代においてタリバンやISによる歴史的文化財の破壊を目の当たりにしました。
それは非常に心を痛める光景だったと記憶していますが、日本における廃仏毀釈はその規模において、タリバンやISよりもはるかに大きな規模の歴史遺産の破壊だったようです。
寺院を廃止して神社としてのみ存続を認められた平泉寺白山神社。
その中で納経所は仏教の施設以外の何者でもありません。
納経所を残す代わりに、破壊された石仏をまるでゴミの山のようにその周りに積み上げたのかもしれませんな。
三の宮へと進みます。
最後の方は石段になってきました。
振り返るとこんな感じです。
ここが三の宮。
三の宮手前左手に楠木正成の供養塔があります。
楠木正成の供養塔
かつてはここに三之宮の拝殿がありました。楠木正成の甥の恵秀律師(えりゅうりっし)がこの拝殿でお勤めをしていると楠木正成が鎧甲の武者姿で目の前に現れたので、恵秀律師が不思議に思い調べてみると、この日に正成が湊川の合戦で戦死していたことを知ります。
その後恵秀律師は供養の石塔を建てました。1336年(延元元年)建立。
1574年(天正2年)の一向一揆の時に拝殿は焼失し、この石塔も一部失われましたが、1668年(寛文8年)に福井藩主松平光通の奉納により補修して周囲に玉垣をもうけました。
この場所は元々三の宮の拝殿だったようです。
これが現在の三の宮です。
三の宮の左脇に越前禅定道の起点があります。
この道は三ツ頭山を経て法恩寺山まで現在でも登ることができます。
春先であれば法恩寺山から経ヶ岳まで進むことも可能ですが、越前禅定道は法恩寺山の少し先で廃道になっており、しばらく途切れた後、小原峠を経て白峰の市ノ瀬へと降り白山山頂へは観光新道を経由して登拝することが可能です。
この先に劔の宮がありますが、今回はここで引き返しました。
時間的にはすでに午後2時を回っており、山に入り込むにはタイムアウトです^^;w
鳥居のところまで戻りました。
二の鳥居。
さらに参道を下ります。
白山神社社務所
こちらによってみます。
こちらに、北陸で一番古い庭園があるとのこと。
国名勝 旧玄成院庭園(くにめいしょう きゅうげんじょういんていえん)
この旧玄成院庭園は、500年ほど前、室町幕府の将軍を補佐した管領 細川高国(ほそかわたかくに)による作庭と伝えられ、昭和5年(1930)旧文部省により国の名勝の指定を受けています。
左手の手前に、仙人の住むという蓬莱島(ほうらいじま)へ向かう船に見立てた櫟(いちい)の木があります。
櫟の木の横の平たい大きな石が礼拝石(らいはいいし)。
その向こうに海に見立てた枯れ池、そして、枯れ池の海の左手に亀島かめしまがあり、亀はその背中に蓬莱山(ほうらいさん)を表す杉を背負っています。
亀の頭は海中にあり、大きな亀手石かめていしも見えます。亀の尾は、ダイナミックに瀧の石組にはねあがっているように見えます。
右手には鶴島つるしまがあります。
鶴島は凛と立つ鶴のふっくらした羽をも表しています。
この蓬莱島の鶴と亀の石組は道教(どうきょう)による不老不死の思想を表現したものです。
この庭園は拝観料が別途50円かかります。
ここで50円取るんだったら、平泉寺白山神社全体で1000円くらい取って、その分整備費に回したら良いのにと思いますが??w
見学は5分もかからなかった^^;w
北陸最古の庭園(現存する中では)なので一見の価値はあると思います。
一の鳥居。
精進坂を下ります。
最初に訪れた顕海寺です。
今回はこれにておしまいでございます。
平泉寺白山神社 その3 納経所 三の宮 旧玄成院庭園 4K
イーハ陶房でくの