さて、金沢から奥能登日帰りの旅、その5は間脇遺跡です。
かねてより存在は知っていましたが、実際に訪れるのはこれが初めてかもしれません。
あるいは?昔行ったことはあるけど、これほど整備されていなかったか、、、、、??w
縄文小屋
発掘調査をもとに再現したようです。
横から見るとこんな感じ。
後ろはこんな感じです。
内部も撮影してますが、動画の方で紹介しております。
静止画で絵になるような画像は得られませんでした^^;w
暗いのでねぇ、、、、、。
国指定史跡 間脇遺跡
結構有力な史跡なんですね。
集落跡なのでしょうか?
やたら広いです!w
三本柱の方に向かいます。
三本柱の後はどうやらお墓のようですね。
よほどの有力者のお墓なんでしょう。
この集落はここで4千年以上栄えたそうですよ!
パワースポットに向かいます!w
これは一体何??w
なぞの環状木柱列
真脇遺跡では晩期の地層から円形に配置された巨大な柱の列が出土しています。これを環状木柱列(かんじょうもくちゅうれつ)と呼びます。
直径90cm以上のものから小さいものでは30〜50cmくらいのものまで、巨大な柱が真円配置で、線対称形に並べて立てられていました。
環状木柱列は縄文時代晩期の北陸地方だけに出土する特殊な遺構です。
これらの木柱列はいくつかの特徴的な要素を持っています。まず、使っている木材はすべてクリの木で統一されています。
クリは他の樹木に比べ、丈夫で腐りにくい木です。
そのため、柱として適していたのだといわれています。
次に、どの柱も丸太ではなく、かまぼこ状に割られています。
しかもまったく半分に割るのではなく、木の中心の芯の部分を除いてあります。
その柱は平らな面を外側にして立てられています。
また、円形に並んだ柱の中には入り口と見られる施設が作られています。
柱とは別の扉状のものを付けるものもあれば、簡素なものではその部分の柱をハの字状に開いて立てているものもあります。
謎なんだね??w
さらに特徴的なのは、この環状木柱列が同じ場所で何度も立て替えられているということです。
真脇遺跡では少なくとも6回の立て替えが認められました。
この木柱列が立てられていた場所は縄文人にとって「聖なる場所」だったのかもしれません。
木製のストーンヘンジみたいな感じなのかな??w
この環状木柱列がいったいどのような構造をしていたのか、何のための施設だったのか、それらはよくわかっていません。
今のところ、柱列の中に炉や墓坑などは確認されておらず、住居や墓ではなかったことはわかっています。
屋根や壁などの付属施設のようなものもなく、柱だけが立っていたと考えられています。
また、当時の人々が何らかのマツリを行う施設であったのではないか、とも言われています。
現在同様の構造物は石川、富山県を中心に約20遺跡で見つかっています。
これらの地域では土器などの他の遺物の特徴も共通するといわれており、縄文時代晩期の北陸地方に、同じ思想を持った人たちの集団が暮らしていたということが伺えます。
北陸地方独自のものなんだね??
今では裏日本とか??
言われたりするけど、その昔は北陸地方こそが表日本で外国に開かれていたはずなんだ。
縄文時代に外国との繋がりがあったとは考えにくいが、、、、、。
まあ、パワースポットであることは間違えない!
4千年栄えるだけの力がここにはある!!w
縄文館
資料館的な建物ですね。
日本漁業発祥の地。
なぜ4千年以上にわたって栄えることができたのか??
それはイルカ漁をして何らかの加工品を作って流通させていたからではないかと言う、、、、。
なので日本漁業発祥地なのです!w
加工って??
能登で有名なのは塩だから、塩漬けとかかね???
しらんけど??w
せっかくなので縄文館に入ってみます。
無料ゾーンと有料ゾーンがありますが、今回紹介するのは全て無料ゾーンです。
エントランスからの廊下に昔の漁船の復元したものが展示されています。
縄文土器の太鼓。
復元品でしょう。
太鼓があると言うことは祭りが盛んだった証でしょうね。
能登の祭りは現在でも圧倒的なものがあります。
石器類。
出土品分布図。
木柱の出土品。
イルカ漁をしていた船を復元したもの。
実はすごかった!
間脇遺跡!!w
縄文時代に4千年以上にわたって定住して栄えたのですから相当なものでしょうね!
面白かったなぁ^^;w
今回の旅はこれでお仕舞いです。
また次の旅でお会いしましょう!!!w
最後は動画だ!!
金沢から奥能登日帰りの旅その3見附島から間脇遺跡へ 4K
イーハ陶房でくの