
今回目指したのは中能登町能登部です。
石動山ゆかりの寺 鷹王山長楽寺 と石標が立っていました。
そういえば昔からあったなこれ、、、、。
あまり気に留めていませんでした^^;w
石動山ゆかりの寺って、、、、。
石動山をめぐる旅としては必須でしょう!w

準別格本山って?
なんか微妙!!w

途中旧道沿いにも石柱が。

坂道を登ってゆくと地蔵堂があります。
ここを左に曲がります。

お地蔵様です。

とりあえず、参道に車を置きました。

南無大師遍照金剛

鷹王山長楽寺参道

山門を目指して進んでいきます。

石段を登ります。

大きな欅の木にしめ縄??

巨木です。

巨木その2!

石動山から移築されたと言われている古い山門です。

鷹王山長楽寺は高野山真言宗の寺院で、もと安楽寺と称し春木村にあったと伝わる。石動山天平寺の別院格で能登国守護畠山氏の祈願所として七堂伽藍三十三坊を構えたが、天正年中(1576年頃)兵火に罹り焼亡した。
時に慶安元年(1648)鹿島半郡領主、長連頼の息女は、眼病平癒のため、天平寺別院・玄秀(長楽寺開基)を請うて当山三社権現(一説に畠山氏帰依の徳丸観音)に祈ったところ治り、この時、姫は開いた目で山上に舞う鷹の姿を見たという。この法縁で鷹王山と号し当地に寺領の長の一字を賜って長楽寺と改称、長家の祈願所として再建された。
近世の檀徒には、郡内の十村役や肝煎役などを抱え、山内墓地には道閑事件で知られる十村で義民となった園田道閑の墓がある。山頂部の古墳数基は神々の塚と伝わる。

長楽寺山門
長楽寺山門は、もともと石動山にあった仁王門を明治12年(1879)に移築したものとされ、建立年代は西面地覆内側の墨書の通り、文政9年(1826)と思われる。
三間一戸の八脚門で、屋根は入母屋造り桟瓦葺となり、移築以前は茅葺きと伝わる。門扉はなく、両脇に仁王像(明治41年奉納)を安置する。
天井は竿縁天井、軒は二軒繁垂木。本柱中央間の高い位置に虹梁を掛け、彫りの深い像鼻で支える。
一方、控柱柱上の像鼻は平面的なもので、より古いものと考えられる。
この説明を見て、ハッとしました。
この寺院と私の先祖がなんらかの関係を持っているのは事実なのだと思いますが、私の母方の先祖が代々暮らしていたのが、ここで言う春木村なわけで、長楽寺が安楽寺という名でそこにあったのだということですね。
具体的なことは何も分かりませんが、なんらかの縁は感じます。
慶王山長楽寺は、元は安楽寺と称し、七尾城主畠山氏の祈願所として栄えていましたが、上杉謙信との戦により焼失してしまいました。
のちに、加賀前田藩の与力長家の姫君の眼病平癒を成就したことで寺領を寄進され、寺号に長家の「長」の字を入れて長楽寺として再興されたそうです。
しかしながら、2016年二月の火災で本堂を焼失してしまい、その際仏像、仏具など多くの貴重な品も失われたそうです。現在は仮本堂「らくあん」でお勤めされているようですが、一日も早い復興をお祈りします。
上杉勢に焼き討ちにあった??
江戸時代より前ですかい??w
そら、具体的なことはわからんわ^^;
そして、長楽寺の本堂は2016年に焼失してしまったらしく、古くからの文化財等も消えて無くなったのだとか、、、、、。

確かに歴史を感じる山門です。

風化した仁王像。

こう言った歴史遺産を風化から守ることがだんだんと難しくなっていくように感じます。
せめて写真やデジタルデータとして保存しておくことが必要なんじゃないでしょうか?

境内側から見た山門です。
私自身はここは初めて訪れた??
いえいえ、遠い記憶が蘇ってきました。
10代の頃自転車を漕いで遊びに来たことがありました。
長い石段を登った先に不動明王の姿を見たことを覚えています。
それはこの寺院に間違えないと、、、、、。
<続く>