白馬山 慈光院

小矢部市、石動駅にほど近いところにある白馬山 慈光院です。

実は春にも一度訪れていますがなんか勘違いかな??

そう思って門の中までは入りませんでした。




白馬山 慈光院

山門を潜ってみます。




白馬山 慈光院

鉄筋コンクリート製の伽藍です。




白馬山 慈光院

境内には石仏が並んでいました。



白馬山 慈光院

なんだか一貫性がない感じ??w

何かの縁でこちらに祀られるようになったんでしょうねぇ、、、、。




白馬山 慈光院

お地蔵様は立像が普通だと思うのだけど、このお方は座っておられる^^;




白馬山 慈光院

境内はこんな感じです。




白馬山 慈光院

額紫陽花が咲いていました。




白馬山 慈光院

梅雨ですね。




白馬山 慈光院

別にどうということのない、真言宗の寺院です。




白馬山 慈光院

上野児童公園。





白馬山 慈光院

真言宗の寺院の多くは神仏合祀的な、神社と一対になっていることが多いようです。

これは日吉神社の鳥居。




白馬山 慈光院

ごく一般的な鎮守の森という感じですかね?




白馬山 慈光院

御手洗(みたらし)おてあらいじゃないよ!!w



白馬山 慈光院

さすがは高岡からほど近い石動!

立派な龍です!w





白馬山 慈光院

灯籠です。




白馬山 慈光院

日吉神社から見た鳥居と慈光院の山門。




白馬山 慈光院

山門脇の慈母観音像。




白馬山 慈光院

火渡り法要で有名なお寺のようでした。

なぜ??

ここを訪れたのか??


私は50年ほど昔中能登町の地頭というところに住んでいました。





地頭(じとう)は、鎌倉幕府・室町幕府が荘園・国衙領(公領)を管理支配するために設置した職。地頭職という。守護とともに設置された。
平安時代(平氏政権期以前)から存在しており、鎌倉時代には源頼朝が朝廷からの認可を得て全国へ設置した。在地御家人の中から選ばれ、荘園・公領において武力に基づき軍事・警察・徴税権を担保し、土地や百姓を自己の物とした。また、江戸時代にも領主のことを地頭と呼んだ。


という意味合いがあるようですが、私にとってはただの自分の住所でした。

その地頭という地に尼寺があったのを鮮明に覚えています。

尼さんはお弟子さんを集めてお花を教えていたのを覚えています。

当時小学生だった私はその尼寺に上がってお菓子か何かをもらって食べたのを今でも記憶しています。

そして、その尼寺のあんじゅさまは石動(いするぎ)から来ていたらしいとの話を後に聞きました。

そのお寺には涅槃像が祀られていたらしいという話も後に聞きました。

最初慈光院を訪れたときは本尊が観世音菩薩のようだったので話に聞いていたお寺さんとは違うのかなと思い、門前で引き返してきましたが、、、、、。

どうやら、慈光院には涅槃像が祀られているようです。





本尊 聖観世音菩薩さまの前に涅槃像が祀られっているのが確認できました。

なるほど!

ここに違いない!!



さらにその成り立ちを追っていくと、、、、、。





開祖妙春法尼は、大正三年十八才で結婚し、夫は、神社、仏閣造営建築の宮大工である。結婚してより十三年間は、子宝にも恵まれ幸福な日々を送った が、昭和元年十一月それまで健康だった夫が突然発病、あらゆる治療、看護の甲斐なく、昭和二年八月一家親族のなげき悲しみのうちに、不帰の旅立ち をしたのである。

その後は、夫に先立たれた悲歎と、幼児三人をかかえて将来の生活の不安、この心のとまどいと空虚に耐えかねて、求道の難行路を自ら求めて突進せね ばならないほど、思いつめていたのである。

中略

「汝の主人の病死は弥陀のはからいである」
「浄土へ行く姿は別にない。汝の今の姿そのまま。罪けがれもそのままぞ」
「弥陀が引受けたからには心配はいらぬ。ただよろこびのうちに称名念仏せよ」

このどこからとなく聞える声にハッとして気付いて見ると、仏壇から六尺余りも無意識のうちに離れて頭を畳にすりつけていたのであった。

永い間、生活も子供も世間をも打ち忘れて一心不乱、本願求道を求めつづけた、この心が、この時始めて無辺の念仏の救いの手に抱かれ、ただうれしさ と有難さの感涙にむせんだのである。

夫の菩提回向と、このみ仏の教えを、世の多くの同心に、逆境に悩む人々にこの法のよろこびを、分かち合いたいと願う心に追いたてられるようにすべ てを捨て、三十有余年一番大切にしていた黒髪を即座に剃り、仏界への転身を決心して、その日より尼僧の道を歩んだのである。

名も妙春と改名、以来経文の修習、そして尼僧としての戒律行法、仏法興隆の使徒として、艱難辛苦の道程を辿ったのである。


○昭和三年九月 草庵を結ぶ。
昭和三年七月草庵建立を発願し、当時手許にあったわずか二百円を基金として、小杉銀行より五百円の融資を受けて着工。その間、托鉢行脚のかたわら法縁を説き、その足跡は富山・石川・福井の三県下にわたり、一銭・二銭の喜捨を仰いだ。




私が実際にあった方が妙春法尼かどうかはよくわからない。

昭和45年の頃だと思われるので、妙春法尼ご本人だとすれば大正3年(1924年)18歳なので、昭和45年(1970年)だと64〜65歳くらいか??

つじつまは合いますね!

布教活動とお布施というかお花を教える月謝でお寺の運営のよりどころの一部にしておられたんですかね??





こちらの情報を閲覧しても、お花を教えていたというのがそれほど違和感なく納得できます。

そういえば、今年の春先、尼寺が建っていたと記憶している場所も訪問していましたね。




_DSC2391

普通の民家が建っていました。



_DSC2392

この祠は何か関係あるのか??


そういえば地頭地区には「お不動さん」と呼ばれていた祠が点在していました。

毎日学校の行き帰りや新聞配達の時に毎日お不動さんの前を通っていたのを今でも鮮明に覚えています。

地頭地区のお不動さんと慈光院は直接のつながりはないものと思われますが、何某かの縁はあるように思われますね。

おそらくお不動さんが祀られている地区ということで妙春法尼さまがこの地を選ばれたのかもしれません。

そもそも、なんでこの地区にお不動さんが祀られていたのか??

それも気になりますね!

なんだか、興味が湧いてきました!w



 

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