1994年秋、それは突然やってきました。
家の向かいに、解体屋さんがあります。そこにある日PC9801が山積みになっていたのです。
「欲しかったら、もってけ」
その言葉に、一輪車に本体、モニター、プリンター等を積んでは運び、積んでは運び何かにとりつかれたように工房に4〜5セットのパソコンが並びました。
さっそく、パソコンに詳しい友人に来てもらって指導を仰ぎました。
HD、メモリー、CPU、等々友人はいろいろと講釈を重ね、結局ソフトがないとパソコンは動かないということを教えられました。
その辺がワープロとはちょっと違う。
それが逆にコンピュウターの無限の可能性なのだと知りました。
もうかなり洗脳されてきたみたいです。
当時入手したのはPC9801F、9801VF、9801UF、そしてサジーの20Mハードディスク。
本屋に通いあれこれ立ち読みし、何とか動かそうと悪戦苦闘しましたが、それが無駄な努力だったと理解するのに約2カ月を要しました。
一つだけ、「9801で見る宇宙の旅」という天文シュミレーションが、何とか稼働する唯一のソフトでした。
123は、立ち上がってもいったい何に使うソフトなのか訳が分かりませんでした。
1995年
本屋さんで、MSーDOS+ハードディスクで始める9801という本を購入。
エプソンの286Vなる中古PCを¥20,000で購入。
続いてスカジーHD350MBを¥35,000新品で購入。
MS−DOS5.01Aを購入。
ハードディスクの素晴らしさに感動しました。
モニターは拾ってきたデジタル16色のままでした。
そのころは、収入のすべてをPCに投資する生活が続きました。
月の収入が10万を超える月は希だったというのに、、、。
286Vとの付き合いは2カ月と続きませんでした。
350MBのHDも結局使い切れませんでした。
当時のソフトは1MB程度で実行できる物がほとんどで、おまけにとても高価な物ばかりで100MBあっても余って余ってしょうがなかったのです。
286Vに見切りを付けた最大の理由は、cpuでした。
EMSボードはとても高価で手が出ず、メモリー640kの壁に行き詰まったのです。
もう486が主流の時代で、win3.1が天下をとっていた時代です。
すぐにエプソン486noteAUなるノートPC i486sx25MHzを購入。
下取りに出したPCとHDが結構値が付いたので¥70,000の中古ノートが¥36,000ぐらいで入手できたわけです。
メモリーが初期状態で1.6MBついていましたから、ようやく念願の拡張メモリーが使えるパソコンが我が物になりました。
しかし、今度は内蔵HDが40MBしかなくいくらDOS専用機とはいえ心もとないものがありました。
すかさず100MBのHDをゲット。¥9,800なり。
その当時は、PCliveという学研の雑誌を毎月購入していました。
付録に付いてくるFDが楽しみで楽しみで、発売日が待ちきれなかった物です。
ついうっかり買い逃した月などは、金沢中の本屋を回り探しまくったものです。
しかし、いくらDOSとはいえもはや1.6MBのメモリーではとても追いつかない状況になり、純正メモリーを購入。
8MBが当時¥50,000!。本体より高かった。
こうなると、欲が出てきてwin3.1をインストールしてみたくなる。
とたんに、100MBのHDが、残り10MBに。
スワップファイルさえつくれない状態。
雪だるま式に、PC地獄(天国??)に転げ落ちる。500MBの内蔵HD¥28,000なり。noteスカジーアダプター¥23,000なり。外づけ500MB HD中古¥14,000なり。中古レーザーA3プリンター¥110,000なり。あこがれの、スキャナーで画像取り込みを¥65,000なり。ワープロファイル変換ソフト¥50,000なり。英和辞書¥5,000なり。漢和辞書¥5,000なり。atok8¥8,000なり。花子格安で¥15,000。ワード6こちらも格安¥12,000なり。メシェ天体ガイド¥8,000。ステラナビゲータ¥12,800。天文学舎¥5,000。ms−dos6.3¥4,500。読んでここ¥12,000。、、、、、、。
買って買って買いまくった。収入の全てを486noteにつぎ込んだ。
そんななか、ショッキングな出来事が!。
PCliveが廃刊に。世の中がwin95一色になった。
姉妹紙のPCingは付録がCD-ROMにかわってしまった。
こうなりゃ意地だ。CDドライブも買ってしまえ。ナカミチの6連挿だ。
モノクロnoteをカラーテレビに映すアダプターも買った。
faxモデムも買った。
テレビの画面を見ながら、ワープロが打てるようになった。ステラナビゲータがカラーで(16色)写るぞ。めちゃくちゃ目が痛くなる。
限界だ!。
もう限界だ!!!。
<続く>