農民芸術概論綱要
農民芸術論綱要の全文は、 山形賢治の学校のWebサイトで閲覧することが可能です。
かつてわれらの師父たちはまずしいながらかなり楽しくいきていた
そこには芸術も宗教もあった
いまわれらにはただ労働が 生存があるばかりである
宗教は疲れて近代科学に置換されしかも科学は冷たく暗い
芸術はいまわれらを離れしかもわびしく堕落した
いま宗教家芸術家は真善もしくは美を独占し販るものである
われらに購うべき力もなく またさるものを必要とせぬ
いまやわれらは新たに正しき道を行き われらは美を創らねばならぬ
芸術をもてあの灰色の労働を燃せ
ここにわれらの不断の潔く楽しい創造がある
都人よ 来ってわれらに交われ 世界よ 他意なきわれらを容れよ
農民芸術論綱要の全文は、 山形賢治の学校のWebサイトで閲覧することが可能です。
農民芸術概論綱要
このような書き出しで始まる、農民芸術論綱要は一つの予言書の様にすら感じられます。
我々は、システムを構築しなくてはなりません。
よどんだ空気が漂っている、現在の世の中は、システムの完成度がとても低いからでしょう。
世界の多様性を、古いシステムが支えきれなくなってきている、あるいは、システムの老化、劣化が進んでいるとも言えるのでしょう。
美しいシステムとは何か??
「正しく強く生きるとは銀河系を自らの中に意識してこれに応じて行くことである」
銀河宇宙は一つのシステムです。
完全な無と高エネルギーから、水素とヘリウムを産み出し、それを核融合炉で燃やし、圧縮して、大爆発を起こす過程で、新たなる物質を精製し、精製された物質が再びリサイクルされ、核融合炉で再資源化され、、、、、。
日常、我々が見たり触れたりする「物」はもとはと言えば、この銀河宇宙の核融合炉から産み出されてきた物です。
夜空に輝く銀河宇宙の全ての光が、この物質の源、核融合炉です。
宇宙の営みのシステムにおいて「ゴミ」という概念は存在しません。
「ゴミ」とは、全く役に立たない「物」、人間の営みを妨げる負の存在です。
ゴミが精製されてしまう世界は、システムとしての重大な欠陥があるわけです。
この不要な「物」を産み出す社会システムでは、不要な「人」をも産み出してしまいます。
不要な「人」が転じて、「犯罪者」にまで発展してしまうのです。
あなたが使っているパソコンも、もちろんシステムで成り立っています。
そのシステムは?使いやすいですか??
使えているから、それでよいのかも知れません、、、、。
それでは?
あなたの使っている、システムは?美しいですか??
美しいシステムという物を、意識したことがありますか??
美しいシステムとは?どんなシステムでしょうか?
はっきりとしたことは、私にも分かりませんが、、、、、。
おそらく、美しいシステムとは、注いだエネルギーが、しっかりとした形になって報われるシステムだと思います。
無駄のない、不要な物を産み出さない、苦労がきちんと報われるようなシステムだと思います。
せっかく努力したのに、何も得る物がなかった、、、、、。
努力するだけ、無駄な世界。
何の落ち度もない者が、ある日突然とんでもない被害者にされてしまう。
このようなシステムは、明らかにその構造に欠陥があると言わざるを得ないでしょう。
では?
そのシステムは?誰が作ってくれるのでしょうか??
あるいは、安全で完成されたシステムの世界に、移住することは可能なのでしょうか??
わかりません、、、、。
一つだけ、信じていることがあります。
完成されたシステム、それは芸術だと言うこと。
銀河宇宙がシステムとしても、望遠鏡の視野に写る真実の姿としても、芸術以外の何物でもないと言うこと。
釈迦如来が悟った、その真理もまた、「宇宙の摂理」であった。
そこに、真実のシステムがあると、、、、。
「おれたちはみな農民である ずいぶん忙しく仕事もつらい
もっと明るく生き生きと生活する道を見付けたい」
このような、つらい労働を、芸術にまで昇華させる
「いまやわれらは新たに正しき道を行き われらは美を創らねばならぬ
芸術をもてあの灰色の労働を燃せ
ここにわれらの不断の潔く楽しい創造がある」
正しく、強く生きること。
それは、創造することであると信じています。
創造することこそが「芸術」であり、創造力のみが美しいシステムを産み出すのだと信じます。
創造も、芸術も、何も一部のプロフェッショナル達の、専門分野ではありません。
例えば、ブログを書くことも立派な芸術になるかも知れません。
美しいブログは、それだけで立派な芸術です。
写真愛好家が個人で運営しているブログや、例えば新製品を紹介しているようなサイトでさえ、これは芸術の域に達している!
と、感じさせてくれる物もあります。
あるいは、自分を絶えず美しく保っている人は、存在しているだけで芸術なのかも知れません。
自分を表現するためにも、システムとプログラムが必要です。
そして、そのシステムとプログラムは、努力が報われる物で無ければなりません。
社会全体のシステムは、そう易々と構築することもプログラムを書き換えることは出来ません。
しかしながら、身の回りにある、小さなシステムやプログラムは、絶えず見直し、書き換えてやることが可能なはずです。
そう言う身の回りの、小さなシステムやプログラムを、絶えず見つめ直し、書き換え実践して行くこと。
正しく、強く、推進して行くこと。
そして、その努力が結実した時に、それは創造であり、芸術なのだと思います。
労働や、収入を得るための糧もそうであって欲しいと願います。
少なくとも、農業を芸術にまで高めている事例は、日本国内にいくらでもあります。
いつか芸術として結実する物へ、惜しみない努力を注ぐこと。
全ての人がそう言う意識に目覚めてくれば、世界は自ずと変わって行くのだと思います。
正しく、強く生きること。
どんなに小さな事でも良いから、それを見つけたい物です。
それを、見失った時、小さなシステムから崩壊が始まり、社会システム全体が崩れ去ってしまうのかも知れません、、、、、、。
消費者
この言葉は、私は大嫌いです!
消費するために、生かされている、まるで家畜のような言われようではありませんか??
我々は、消費者にされているのです。
資本主義経済社会に洗脳されているようにさえ感じます。
情報の世界ですら、我々は消費者扱いされています。
「お客さま」と、持ち上げておいて、情報を擦り込んで、商品を売りつける、、、、。
お客さまは、物を消費するだけ、、、、。
もう、消費者をやめませんか?
物は、創造するために仕入れるのです。
仕入れた物から、美しい物を創造して行くのです。
食もまた芸術であります。
Think different !
考え方を変えよう!
昔、こんなキャッチフレーズでパソコンを売ってる人がいましたねw
おれたちはみな農民である ずいぶん忙しく仕事もつらい
もっと明るく生き生きと生活する道を見付けたい
われわれの古い師父たちの中にはそういう人も応々あった
近代科学の実証と求道者たちの実験とわれわれの直感の一致において論じたい
世界がぜんたい幸福にならないうちは,個人の幸福はあり得ない
自我の意識は個人から集団社会宇宙と次第に進化する
このような書き出しで始まる、農民芸術論綱要は一つの予言書の様にすら感じられます。
我々は、システムを構築しなくてはなりません。
よどんだ空気が漂っている、現在の世の中は、システムの完成度がとても低いからでしょう。
世界の多様性を、古いシステムが支えきれなくなってきている、あるいは、システムの老化、劣化が進んでいるとも言えるのでしょう。
美しいシステムとは何か??
「正しく強く生きるとは銀河系を自らの中に意識してこれに応じて行くことである」
銀河宇宙は一つのシステムです。
完全な無と高エネルギーから、水素とヘリウムを産み出し、それを核融合炉で燃やし、圧縮して、大爆発を起こす過程で、新たなる物質を精製し、精製された物質が再びリサイクルされ、核融合炉で再資源化され、、、、、。
日常、我々が見たり触れたりする「物」はもとはと言えば、この銀河宇宙の核融合炉から産み出されてきた物です。
夜空に輝く銀河宇宙の全ての光が、この物質の源、核融合炉です。
宇宙の営みのシステムにおいて「ゴミ」という概念は存在しません。
「ゴミ」とは、全く役に立たない「物」、人間の営みを妨げる負の存在です。
ゴミが精製されてしまう世界は、システムとしての重大な欠陥があるわけです。
この不要な「物」を産み出す社会システムでは、不要な「人」をも産み出してしまいます。
不要な「人」が転じて、「犯罪者」にまで発展してしまうのです。
あなたが使っているパソコンも、もちろんシステムで成り立っています。
そのシステムは?使いやすいですか??
使えているから、それでよいのかも知れません、、、、。
それでは?
あなたの使っている、システムは?美しいですか??
美しいシステムという物を、意識したことがありますか??
美しいシステムとは?どんなシステムでしょうか?
はっきりとしたことは、私にも分かりませんが、、、、、。
おそらく、美しいシステムとは、注いだエネルギーが、しっかりとした形になって報われるシステムだと思います。
無駄のない、不要な物を産み出さない、苦労がきちんと報われるようなシステムだと思います。
せっかく努力したのに、何も得る物がなかった、、、、、。
努力するだけ、無駄な世界。
何の落ち度もない者が、ある日突然とんでもない被害者にされてしまう。
このようなシステムは、明らかにその構造に欠陥があると言わざるを得ないでしょう。
では?
そのシステムは?誰が作ってくれるのでしょうか??
あるいは、安全で完成されたシステムの世界に、移住することは可能なのでしょうか??
わかりません、、、、。
一つだけ、信じていることがあります。
完成されたシステム、それは芸術だと言うこと。
銀河宇宙がシステムとしても、望遠鏡の視野に写る真実の姿としても、芸術以外の何物でもないと言うこと。
釈迦如来が悟った、その真理もまた、「宇宙の摂理」であった。
そこに、真実のシステムがあると、、、、。
「おれたちはみな農民である ずいぶん忙しく仕事もつらい
もっと明るく生き生きと生活する道を見付けたい」
このような、つらい労働を、芸術にまで昇華させる
「いまやわれらは新たに正しき道を行き われらは美を創らねばならぬ
芸術をもてあの灰色の労働を燃せ
ここにわれらの不断の潔く楽しい創造がある」
正しく、強く生きること。
それは、創造することであると信じています。
創造することこそが「芸術」であり、創造力のみが美しいシステムを産み出すのだと信じます。
創造も、芸術も、何も一部のプロフェッショナル達の、専門分野ではありません。
例えば、ブログを書くことも立派な芸術になるかも知れません。
美しいブログは、それだけで立派な芸術です。
写真愛好家が個人で運営しているブログや、例えば新製品を紹介しているようなサイトでさえ、これは芸術の域に達している!
と、感じさせてくれる物もあります。
あるいは、自分を絶えず美しく保っている人は、存在しているだけで芸術なのかも知れません。
自分を表現するためにも、システムとプログラムが必要です。
そして、そのシステムとプログラムは、努力が報われる物で無ければなりません。
社会全体のシステムは、そう易々と構築することもプログラムを書き換えることは出来ません。
しかしながら、身の回りにある、小さなシステムやプログラムは、絶えず見直し、書き換えてやることが可能なはずです。
そう言う身の回りの、小さなシステムやプログラムを、絶えず見つめ直し、書き換え実践して行くこと。
正しく、強く、推進して行くこと。
そして、その努力が結実した時に、それは創造であり、芸術なのだと思います。
労働や、収入を得るための糧もそうであって欲しいと願います。
少なくとも、農業を芸術にまで高めている事例は、日本国内にいくらでもあります。
いつか芸術として結実する物へ、惜しみない努力を注ぐこと。
全ての人がそう言う意識に目覚めてくれば、世界は自ずと変わって行くのだと思います。
正しく、強く生きること。
どんなに小さな事でも良いから、それを見つけたい物です。
それを、見失った時、小さなシステムから崩壊が始まり、社会システム全体が崩れ去ってしまうのかも知れません、、、、、、。
消費者
この言葉は、私は大嫌いです!
消費するために、生かされている、まるで家畜のような言われようではありませんか??
我々は、消費者にされているのです。
資本主義経済社会に洗脳されているようにさえ感じます。
情報の世界ですら、我々は消費者扱いされています。
「お客さま」と、持ち上げておいて、情報を擦り込んで、商品を売りつける、、、、。
お客さまは、物を消費するだけ、、、、。
もう、消費者をやめませんか?
物は、創造するために仕入れるのです。
仕入れた物から、美しい物を創造して行くのです。
食もまた芸術であります。
Think different !
考え方を変えよう!
昔、こんなキャッチフレーズでパソコンを売ってる人がいましたねw
自然の中にはヒントだらけ
見落とさずに気を張っていたい