寝耳に水という言葉は知っていましたが、そう状況に接する機会は経験がありませんでした。
今回のことはまさにそれをガチで突きつけられてしまった感じで、、、、。
嘘やろ???
とても信じられませんでした、、、、、。
喪主であるご長男さんは「合掌ができない」とおっしゃっていました。
到底事実として認めることはできない、、、、、。
久世先生は胆道癌と診断されていたようです。
それは、わずか一ヶ月前のことだったそうで、、、、、。
がんの告知からたったの一ヶ月、、、、。
その日も朝は元気なご様子だったのに、夕方には帰らぬ人となってしまったと、、、、、。
胆管破裂?動脈破裂だったか??
はっきりとは覚えていませんが、容態が急変してあっという間に帰らぬ人となられたというお話でした、、、、、。
生前から破天荒な性格で、人をびっくりさせるのが得意?で、、、、、。
最後の最後まで、そういう性格が現れたのかもしれませんとも、、、、。
久世先生と最後にお会いしたのは、金沢美術工芸大学の学長を退官されたパーティー会場でした。
その時の写真はFaceBookに残されていたので、サルベージしてきました。
久世先生は福井県の生まれで、金沢美術工芸大学を卒業した後瀬戸で高校の教員をしながら作家活動をされていたという話でした。
私が美大の3年生の時、金沢美術工芸大学の助教授として金沢に赴任して、私自身は二年間久世先生に教わることができました。
久世先生と一緒に大学生活を送った最初の世代ということになります。
久世先生はその当時(現在はどうかは知りません)車の免許を持っておらず、いつも奥様が運転しておられたと記憶しています。
喪主の挨拶によると、親類縁者からは久世先生とうまくやっていける人はこの奥様を除いて他誰もいない!
そう言われていたそうです。
奥様がいるんだから、免許なんて必要ない!
お酒も好きだったしねぇ、、、、。
それだけ信頼関係が強かったんでしょうねぇ、、、、、。
奥様は若くして父親を亡くし、母親と力を合わせて下のご兄弟の面倒を見ておられたと、、、、。
そこにヒョコンとやってきたのが久世先生で、奥さんの瀬戸の自宅に陶芸用の工房を構えて陶芸を生活を送る傍ら、地元の高校でも教鞭を振るっていたというお話でした。
この奥様との出会いから全てが始まったんだと、それが喪主のご挨拶でした。
久世先生がやってきてから金沢美術工芸大学の風潮というか、空気が変わったのを私ははっきりと覚えています。
この先生の赴任が、自分たちにとってとても大きく貴重なことなんだと本当に歓迎していたと思います。
当時の金沢美大にとって異端児にもなりかねなかった久世先生が、古い勢力と対立を生むどころか、後に学長にまで就任しておられるところを思うと、むしろ金沢美術工芸大学は「久世建二」に期待するところが大きかったのかもしれません。
そして、その期待に見事に応えて見せてくれたのが、久世先生だったのだと思いますね。
私の印象は、久世先生は人にあれこれ言う前に、自分が「こうするんだよ!」と、お手本を見せてくれるというか、そんな浅はかな考え以前に、造形が好きで好きでしょうがない!
自分が作りたいから作るんだよ!
そうやって、創造者としてのあり方を実践して見せてくれた。
いや、見せるんじゃなくて本当に自然に生きることそのものが創造なんだよと自分の姿を通して教えてくれた先生だと思います。
他の先生の悪口を言うつもりはありませんが、、、、、。
例えば、、、、。
展覧会の締め切りが近づいてきて「あーあと1日あればなー!!」と悲鳴を上げていた先生を何人か(複数)見ていました^^;
確かに大学の雑用と自らの作家活動を両立するのは大変なことだと事情は十分に理解できますが、、、、。
久世先生はそう言うのとは違う次元で創作活動をしている先生だなと頼もしく思ってみていましたね。
そうか、古い勢力が久世先生に対抗意識を持たなかったのはこの辺りの事情だったのかも??w
久世先生!
あなたに教えていただいたことを、もう少し身につけていたなら、私の半生も違うものになりましたかね??
でも、6年前のあの日、
「今はこんなものを作っています!」
と、iPhoneの画面で作品を見ていただけたのがせめてもの救いでした。
先生に見てもらえた!
それだけで、嬉しかったな、、、、、。
寝耳に水、、、、。
もう変えることのできない現実、、、、、、。
ご冥福をお祈り申し上げますとしか、言葉が出てきません、、、、、、、。