手前がJBLで奥のがALTEC CF404-8Aです。
JBLはJames Bullough Lansing(JBLの生みの親)の頭文字をとった物ですが、では?
ALTEC LANSINGのLANSINGは?誰なんでしょうか?w
(クイズかよ?w)
答えは!
James Bullough Lansingです!
って?
ALTECは?JBLなのか?
実は、その通りだったりします^^;
art random - 人生のセイムスケール - age 47
↑のサイトによれば、、、、。
JBLさんは、、、、、。
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やはり、天才は違いますなw
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ろくなものがなく、、、、、。
無ければ自分で作るしかない!
そうですねぇ、、、、。
文句をたれるのは簡単ですけど、、、、。
それじゃ、自分で作っちゃえ!
ってところがすごいですよね?
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会社まで興しちゃったんですね、、、、。
ああ、、、。
オーディオなんかまだ誕生する前の話なのか、、、、。
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番頭さんを事故で失った時から、悲運の始まりと言う感じでしょうか、、、、、、。
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要するに、LANSINGはALTECに買収されてしまった、、、、。
だから、ALTECがJBLな訳なんですね、、、、。
5年で退社、、、、、。
ここが運命の分かれ道だったのかも?
知れませんね、、、、。
もしも、JBL氏がALTECにあと5年在籍し続けていたら、彼の運命も変わっていたんでしょうか?
JBL氏には、もっとたくさんのオーディオを設計してほしかったです、、、、、、^^;
そのALTECも既に社名だけ、中国系のメーカーに買い取られたのかな?
日本のヤシカみたいに、、、、、、。
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1947年ですか?
60年前でしょうか?
スピーカーは50年進化していないとか、、、、、。
だから、良いのかもしれませんけど、、、、^^;
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天才エンジニアについて
↑こちらのサイトによると、、、、。
天才エンジニアについて
この話を聞いた時は、私もショックでした、、、、、。
ALTECやJBLと言う名前は、栄光のある歴史を刻んできたんだと、思っていましたが、、、、。
1万ドルの生命保険、、、、。
自殺することで、やっと守られた社名、、、、、。
JBLのエンジニア達は、LANSINGが文字通り命をかけて守った会社を、それこそ命がけで経営して行ったんでしょうねぇ、、、、、。
ALTECが事実上既に世の中から消え去り、JBLが未だに第一線で活躍し続けている違いは?
こんなところにあったのかもしれませんね、、、、。
LANSING亡き後のJBLのメンバー達が、どんな風に商品開発、運営して行ったのか?
その辺にも興味が湧きますよね?
二つのLANSING、、、、、、、。
物語は、本当は切なくて、やるせない話なのでありました、、、、、、。
って?
ALTECは?JBLなのか?
実は、その通りだったりします^^;
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ジェームス・B・ランシング
↑のサイトによれば、、、、。
JBLさんは、、、、、。
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少年時代の彼は機械いじりや電気が好きで自作に没頭する毎日だった。
しかも大変な天才だったらしく12才の時に早くもその片鱗をうかがわせる事件が起きる。
彼が作った小型無線機があまりにも高性能だったためその電波を時の海軍無線局にキャッチされ無線機は海軍の手で没収、処分されるというエピソードが残っている。
1914年といえば第一次世界大戦勃発の年。
やはり、天才は違いますなw
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1924年(22才)母が亡くなると家を出てソルトレークシティに移り、ここでラジオ放送局の技師として働く。
この時期のラジオ用スピーカーはろくな物が無く彼は技師として働く傍ら高性能スピーカーの開発に没頭。
ろくなものがなく、、、、、。
無ければ自分で作るしかない!
そうですねぇ、、、、。
文句をたれるのは簡単ですけど、、、、。
それじゃ、自分で作っちゃえ!
ってところがすごいですよね?
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1927年(25才)ソルトレークで知り合ったケン・デッカーと一緒にロサンゼルスに移り、ラジオ用スピーカーの製造を始めまる。
会社の名は「ランシング・マニュファクチャリング社」。
この頃、映画業界ではトーキーが始まり、高性能な劇場用スピーカーの需要が高まりつつある時期だった。
会社まで興しちゃったんですね、、、、。
ああ、、、。
オーディオなんかまだ誕生する前の話なのか、、、、。
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1934年(32才)前年にMGM映画社から劇場用スピーカーシステムの製作の依頼を受けたランシングは全力を傾注し、ついに「シャラーホーンシステム」と呼ばれる大型劇場用2ウェイスピーカーシステムを完成。
このシステムは1936年には映画芸術科学アカデミー賞を受賞。
1937年発表の小型システム「アイコニック」も大きな成功をおさめ、JBLサウンドの原点を確立するとともにランシングの名を広く世界に知らしめる事となる。
1939年(37才)会社経営の片腕として全幅の信頼を寄せていたケン・デッカーが飛行機事故でこの世を去ると事業はたちまち経営困難に陥る。
多くの天才技術者がそうであるようにランシングも経営に関しては全く無能だったらしい。
番頭さんを事故で失った時から、悲運の始まりと言う感じでしょうか、、、、、、。
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1941年(39才)ついに経営に窮したランシングは会社をアルテック・サービス社に売却。
アルテック・サービス社ではこれを「アルテック・ランシング社」という子会社として設立し、ランシングを技術担当副社長に迎える。
ボイス・オブ・ザ・シアターで有名なアルテックの栄光の歴史はここから始まる。
設立当初の従業員は30名。
ランシングがアルテック在籍中の5年間に開発した製品としては1943年の同軸型604スピーカーをはじめ、515ウーファー、288ドライバー等、その後のアルテックの基礎を築いたといっても過言ではない名ユニットばかり。
その後もアルテック社はプロ用音響機器の分野で発展を遂げ1975年には社員数も1000人を超えるまでになる。
1946年(44才)アルテックとの契約期間は5年間だったため、ランシングはアルテック社を去る。
何故、契約を更新しなかったのかは不明だが、「自分はもっと美しい家庭用スピーカーを作りたいのだ」と言ってアルテックを離れたという。
そしてこの年JBL社(ジェームス・バロー・ランシング・サウンド社)が設立される。
要するに、LANSINGはALTECに買収されてしまった、、、、。
だから、ALTECがJBLな訳なんですね、、、、。
5年で退社、、、、、。
ここが運命の分かれ道だったのかも?
知れませんね、、、、。
もしも、JBL氏がALTECにあと5年在籍し続けていたら、彼の運命も変わっていたんでしょうか?
JBL氏には、もっとたくさんのオーディオを設計してほしかったです、、、、、、^^;
そのALTECも既に社名だけ、中国系のメーカーに買い取られたのかな?
日本のヤシカみたいに、、、、、、。
art random - 人生のセイムスケール - age 47
1947年(45才)38センチフルレンジユニットの傑作D130完成。
その後、D131、D208、175ドライバーといったJBL社初期のユニット群が作られた。
これらの製品はアルテック時代のユニットとともに50年を経た現在でも多くのファンが愛用している。
1947年ですか?
60年前でしょうか?
スピーカーは50年進化していないとか、、、、、。
だから、良いのかもしれませんけど、、、、^^;
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1949年(47才)「もっと美しい家庭用スピーカーを作りたい」と言ってJBL社を興したランシングだが、残念ながら彼自身はそんなスピーカーを見ることも聴くこともできなかった。
なぜなら会社の発足当初から例の経営音痴がまたもや彼を悩ませていたから。
彼は優れたエンジニアではあったが仕事に没頭すると、周囲の事が全く見えなくなるタイプで、気がつくと莫大な借金が彼の前に立ちはだかっていた。
かくして1949年9月24日、ランシングは工場裏の日頃お気に入りだった一本のアボガドの木にロープをかけた。
ランシングは亡くなったが彼の意志と情熱は残された社員に受け継がれた
天才エンジニアについて
天才エンジニアについて
↑こちらのサイトによると、、、、。
天才エンジニアについて
JBLの設立者として有名な天才エンジニアの James B. Lansing は設計者としてはMGMと組んで映画館用のスピーカーシステムを1937年に発表し、大成功を納めたにもかかわらず、企業人としては不幸の連続だったような気がします。
ビジネス・パートナーを飛行機事故で失ってからは、資金繰りに苦しみ1941年には、ついに、それまでは単なるメンテナンスをするだけの会社だったALTECに会社を売却し、それまで Lansing Manufacturing Company の製品だった284(後のALTEC/288の原型)や38cmウーファー(後のALTEC515の原型)や801(後のALTEC/802の原型)などが全てALTECの製品となり、自分の名字である Lansing までALTEC Lansing の商標として利用されることになりました。
当時の ALTEC は Western Electric の権利を買い取っただけで、自分たちでは製品を作る能力もないような状況でしたので、非常に良い買い物をしたことになるでしょう。
それに引き替え、JamesはALTECに買収される際、最低5年は独立しないと言う契約をさせられ、その契約が終わり、ようやくJBLとして独立することができましたが、当初から資金調達に苦労し続け、自らの死期を早めてしまったようです。
(当時の金額で1万ドルの生命保険を残して・・・・)
この話を聞いた時は、私もショックでした、、、、、。
ALTECやJBLと言う名前は、栄光のある歴史を刻んできたんだと、思っていましたが、、、、。
1万ドルの生命保険、、、、。
自殺することで、やっと守られた社名、、、、、。
JBLのエンジニア達は、LANSINGが文字通り命をかけて守った会社を、それこそ命がけで経営して行ったんでしょうねぇ、、、、、。
ALTECが事実上既に世の中から消え去り、JBLが未だに第一線で活躍し続けている違いは?
こんなところにあったのかもしれませんね、、、、。
LANSING亡き後のJBLのメンバー達が、どんな風に商品開発、運営して行ったのか?
その辺にも興味が湧きますよね?
二つのLANSING、、、、、、、。
物語は、本当は切なくて、やるせない話なのでありました、、、、、、。